10年、通った~ジャズのメッカ ニューオーリンズの街で ・・・
2001年5月9日 の記録
日本音楽著作権協会正会員
2 0 1 2 年 辰 年
年男~ ボクも84歳を迎える 病気と仲良く見つめあい
現役を邁進!
音 楽 三 昧 で楽しみます
2011年4月24日 小倉の偉人・岩松助左衛門を偲ぶ会が小倉城松の丸「顕彰碑」前で行われた。
ボクはひょんなことから、この顕彰会でピアノを弾くことになった。
今日は、偲ぶ会でピアノを弾く展開になった話を~
2010年1月23日、豊浦町の川棚で「ジャズオーケストラがやって来た」という、ジャズと演歌のコラボを「川棚の杜コルト・ホール」で開催した。
この音楽イベントを北九州からTOTOの社員3人と郷土歴史家が見に来ていたのだ。
それからの彼らの行動が九州人だねー。 ステージが閉幕したら、いきなりボクのところに来て「白州灯台の詞に曲をつけてくれませんか」と頼んできた。
普通、初対面の人は紹介者を通して、頼みにくるものだが、ボクも九州人だから難しいことは云わず・・・「曲をつけるのはやぶさかではないが、白州灯台のことをよく知らない」と話したら、
3月の始めにTOTOのOB社員が「白州灯台を見に行きましょう」と自宅まで迎えにきた。
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* 幕末から明治にかけ、関門海峡を通過する多くの船が、響灘の難所
だった
大暗礁の白州に乗り上げ難破した。 小倉藩海難救助の役目に就いてい
た岩松助左衛門はこれを防ごうと、全財産を投げ出し、建てたのが白州灯
台だった。
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この灯台は若松からが、一番見やすいということで、若松から見ることになった。
初めてみた白州灯台は北九州より下関のほうが近かかったので、「あれは下関じゃないのか?」と聞いたら・・・「行政では北九州市です」と真面目に答えていた。
北九州より下関の方が近い白州灯台のことを、下関の人は、その経緯をほとんどの人が知らない。
恩恵は下関も同じように受けていたことを考えたら、何か不思議な気がした。
頼まれた譜面は偲ぶ会が行われる一週間前に渡し、今年で12回目という「岩松助左衛門翁偲ぶ会」に出席した。
偲ぶ会には、北九州市長や福岡県議会議長など、すごい顔ぶれが集まり行われた。
「白州灯台のうた」はボクのピアノ伴奏で全員が合唱し、披露された。
ボクは、譜面を渡して一週間しかたっていないので、うまく歌えるか心配したけど、きちんと歌っていたのには、みんなの熱心さが伝わってきた。
作曲者に悪いと、猛練習したことだろう・・ こういう気遣いは正直、嬉しい限り!
会の終わりには、来賓者の挨拶があり、ボクは「元 北九州市長谷さん、元TOTOの江副社長、元玉屋デパートの田中丸社長の3人にボクがアメリカ公演に出かけるときに、門司の三井倶楽部で壮行会を開いてもらったので、北九州市に恩返しをしなければいけないと思っていましたから、これでお返しが出来ました」とお礼を述べたら、みんな大喜びでヤンヤの拍手だった。
・・・北橋健治市長は、「ジャズマンの腕で小倉城をイメージした曲を即興で弾いてくれ」と突然リクエストがきた。
・・・ボクは、ピアノの鍵盤を一切見ないで城を見上げプレイした。
・・・・市長は「まもなく小倉城の四百年祭なので、小倉城をテーマにした曲を作ってください」と話がはずんだ。
又、『小倉北消防団の副団長は「白州灯台のうた」を消防団吹奏楽団で、ぜひ演奏できるようにして欲しい』と・・・
詞は昔に出来ていたんだろうが、曲をつけるだけでインパクトがこれだけ変わるという音楽のすごさを実感したのだろう・・・
コトの始まりは、川棚の音楽イベント・・・・。
行動をおこさんにゃ、何も起こらん・・・・と云うことをつくづく感じた「川棚一巻」だった。
2012年 4月 1日 「台湾万葉歌人 洪 坤山」氏の音楽で偲ぶ会がやってくる。
ここに、坤山氏との出会いを想う!
「北に対き年の始めの祈りなり 心の祖国に栄えあれかし」
この短歌は、日本の軍需工場で少年工として働いていた、
台湾の歌人 故 洪 坤山(こうこんざん)さんが詠んだ歌です。
ボクが洪さんのことを知ったのは、今から9年前のことだ。(2003年)
文芸春秋の平成十五年8月号に作家の阿川弘之さんが載せた随筆「心の祖国」を読んだからだ。
その随筆を引用すると、太平洋戦争の末期に神奈川県高座郡大和(大和市)の高座海軍工廠に約八千四百人の台湾出身の少年工が働いており、洪さんもその中の一人だった。
ただ、洪さんたちは軍の強制徴用ではなかった。
軍需工場で働きながら数学、英語、製図など中学校程度の教育を学び、工員養成所の学習過程終了後は卒業証書と海軍技手(ぎて)の資格がもらえることになっていた。
だが、その約束は敗戦ですべて御破算になり、ほとんどの少年工は日本国籍を失い、台湾に送り返されたのだ。
それでも日本の悪口は言わず、日本の学校で学んだから今があると、感謝の気持ちを絶えず忘れなかった。
それを和歌に託したのが、最初の「心の祖国」だった。
阿川さんも、この歌を夫人に読んで聞かせようとしたら、「無謀な戦争をやって、負けて、彼らを見捨てた日本を、『心の祖国』だなんて思ってくれる老人が大勢いる国が世界中の何処にあるか・・・」と絶句し、言葉にならなかったと言っている。
ボクも阿川さんと同様に、洪さんの日本への深い思いに感動した。
どうしても、洪さんに感謝の気持ちを伝えたくて、短歌に曲をつけて「第二の祖国へ」という曲を作り、台湾に訪れて闘病中の洪さんを探し当てプレゼントした。
その年の10月に「少年工来日60周年記念大会」が神奈川県座間市で開かれ、台湾から当時少年工だった70過ぎの老人が六百人、日本側 六百人 合計一千二百人が参加した。
式典には、ボクとむつみで「第二の祖国へ」をステージで披露し、阿川弘之さんは来賓として出席した。
糖尿病が重くて人工透析中の洪さんは、ドクターストップがかかっていたにもかかわらず、奥さんと一緒に来日し、式典に臨んだ。
来日のもう一つの目的は、阿川さんとボクへのお礼だった。
式典では敗戦で60年間宙に浮いていた、卒業証明書(厚生労働省発行)が授与され、ボクのピアノ伴奏で「仰げば尊し」の合唱が行われ、区切りとなった60年ぶりの卒業式は笑顔と涙で終った。
驚いたことは、式典に出席するために、ボクは東京プリンスホテルに前日から泊まっていた。
すると、隣の部屋に 洪 坤山夫妻が宿泊していたことだ。
ボクの宿泊先を調べて、予約したのだろうけど、その律儀さには頭が下がる思いだった。
その洪さんも翌年又、台湾で再会を約束して別れたが、4月6日他界された。
ボクは日本を愛してやまなかった洪さんの心を次の世代に少しでも伝えて生きたいと思い、洪さんの師で「台湾歌壇主宰の故 呉 建堂」さんの歌碑がある 下松市の米泉湖文学碑プロムナードにボクの仲間やゆかりの人たちの協力をいただき、洪さんの歌碑を2005年の秋に完成させた。
その時に一番の力添えをしてもらったには、俳誌「山彦」主宰 河村正浩さん(下松市)と
三牧石材店代表の三牧義彦さん。 この両人には大変感謝している。
2006年4月には、台湾から洪さんの夫人、洪 林振振さんと家族を呼び、完成記念式を行った。
当日は台湾放送が実況するためにわざわざ来日するなど、盛大な式典になった。
下記写真 ~(台湾国際中央放送アナウンサー 三宅教子さん)
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不思議なことも起こった。
朝から大雨と大雷で式典は無理かと思ったら、開始の11時になると嘘のように晴れ上がった。
林振振夫人は「坤山が嬉しくて泣いた」と涙ぐむなど、忘れられない一日になった。
それから毎年 桜の咲く時期 4月には、「洪 坤山を偲ぶ会」を開いている。
洪 林振振夫人も「お墓参りです」と台湾から、毎年来られる。
すばらしい料理 ・・・ ふたりのコックさん付きで
世界の名画をバックに ~ 楽しい 会 食
歓迎のための 「踊 り」
みんなで 合唱 「アメージング・グレイス」 賛美歌 を ~
左 「作詞の 郭 振純さん」
奏でる ・・・・ ローレライ ・・・・
左 三宅教子さん(今回の縁結びの女神) の唄も出た! ”楽しい 一刻”
驚いたのが! ギターを手に ”影を慕いて” を 前奏から~
「即席 男性コーラス・トリオ 出来上がり」 = なんと 大正3年の”命短し、恋せよ 乙女” なる 「ゴンドラの唄」 つづいて 「山小屋の灯火」 ・・・・
お別れに ~ 私に向かって スタンドプレイで ”仰げば尊し” ~
これ以上の歓待なし!
多 謝 いつまでも~ 多 謝 再会を~
撮影:今泉靖親
この度 台南での 「許 文龍」氏 との・・・写 真 集 を~
ふたりで入場行進マーチ(ボクの作品)のリズムで ~
全員で・・・ふたりに拍手!
許さんへの 賛美を 共演 ・・・・ 世界の名器 「ストラディヴァリウス」で
私からの注文で ・・・・・ ”ピジカット”を希望!
ロシア語の上手な 許さん夫妻でマンドリン演奏
許さんとの 一 問 一 答
ソプラノの女性の唄う 「ドイツ歌曲」 ・・・ 澄み切った美しい声!
許さんは マドリンの名手でもあり 奏でる ”ラ モ ナ ”
全員で マンドリンで「古賀メロディ」を~ 明大 マンドリンクラブ風に・・・・・
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会食が 始まります~ 「賛美歌を唄って、お祈りです」・・・・
次 回 つづきます・・・・
故 司馬遼太郎と 云えば、国民的作家でもあり近くは
NHK大河ドラマの「坂の上の雲」で、映像にも見るべきものがあった。
その司馬さんが「老台北」(ラオタイペイ)となずけた蔡 焜燦(サイコンサン)。
戦時中は陸軍航空隊で奈良で終戦を迎えた。台湾に引き揚げて以来、実業家として活躍、現在は「台湾歌壇」の代表者であり詩人でもある。
司馬さんの台湾紀行の文章にある如く、長期間一緒に島内を巡り、
司馬さんの食事の手配を料理人に注文したと聞いている。
その老台北。蔡さんが今から9年前になるが、ある夜にボクの自宅に「私は台湾の蔡 焜燦と申しますが・・・」と電話あり・・・「私の義弟でもある”洪 坤山”が亡くなって生前に詠んだ句”北に対って 年の始めの祈りなり 心の祖国~(日本のこと)に栄えあれかし)”に作曲をして頂いたそうで・・・・
~洪 坤山を音楽で偲ぶ会~を、台北の司馬遼太郎さんが常用された「アンバサダーホテル」二階のホールを貸し切りますので、お願いできますか?・・・
と要請された。
私の古い記憶では、小学館から出版された『日本人よ胸を張れ』著書
蔡 焜燦を思い出して・・・
カミさんとバンド同伴で台北へ・・・
老台北の博識は・・・本当にすごい。
あるパーティ席上で蔡さんが私に質問!
「加藤さん 貴方はミュージッシャン。 ロスアンジェルスのオリンピックで優勝した、日本の”飛び魚” 古橋さんの賛歌知っていますか?・・・・知りません!
それでは、(島原の子守唄)の4番の歌詞ご存知ですか?・・・私 知りません!
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最後の止めに、 故 司馬遼太郎さんが着用された宮中での文化勲章授与の際に、身につけた 背広上下 靴 ネクタイ すべて奥様から形見わけとして、蔡さんに届けられた由。
それを身につけたら、靴までサイズがピッタリとのこと。
そこで 私へ・・・「いいですか 加藤さん! わたしが病気で入院し、最後を迎えるときは、この靴を履きます」・・と
「あなたは私の枕元で、”島原の子守唄”を演奏して下さい」・・・と
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そんな彼の主催する 『台湾歌壇』の新年歌会」へ出席。
(台湾式 挨 拶) ・・・ 作曲したCD贈呈

(明石元ニ郎閣下 鳥居 訪問の報告)
蔡さん & 洪 林振振さん & 加藤
(今泉靖親さん & 蔡 焜燦さん & 加藤)

東京からご参加の記者、中には 慶應大学名誉教授も・・・・。
その席で皆様へ 私のことを~ カラ カラ さんとして紹介。
又、私への土産物の心配をしてくれる。
ミスター蔡さん! これ又、再会を約束して。
・・・以上のことを作家 阿川弘之さんへ一報しよう。
日本出発前に電話で激励の言葉を頂いていた。
・・・・・・二人のフォルモサの巨人と、時を過ごした”ハッピーディ”でした。
(注釈)「老台北」とは・・・
作家・司馬遼太郎は、親しみを込めて男性を「老台北」と呼んだ。
世界各地を旅して書かれた短編紀行文集『街道をゆく』の40番目、「台湾紀行」の中で、「老台北」は頻繁に登場する。
名を蔡焜燦(さいこんさん)という。
北京に何代も住み続け、中国の上流文化を備える知識人のことを「老北京」と呼ぶが、司馬の眼には、それを台北という言葉に代えて表現したくなるほどの教養人に映ったに違いない。
蔡さんは、1927年生まれの85歳。日本が統治する台湾の台中・清水で生を受け、日本の教育を受けて育った「日本語世代」の1人だ。
18歳まで、日本人だった。
その洞察力は現在も、いささかも衰えを知らない。
いま、揺れる東シナ海と沖縄、そして日本の将来を、祖国・台湾と同じように我がことのように心配し、見つめる日々が続いている。
ある日、旧知の台湾国際放送の黄 教子さんのFAXが自宅へ。
作曲の依頼・・・・「申し訳ありませんが、なんとかOKしてくれませんか?」
永年10年に渡る旧知の教子さんの申し出なので、それなりの理由があると推察。
ルビをつけて、原詩をFAXにてと返信!
表題は「許 文龍氏への賛歌」との事。・・・イメージは明るく 作曲して欲しいとの事。
予算もないこと。
自宅で録音して、CDにしての教子さんへ。
サア! それからが大変! 主人公の許さんはボクと同じ辰年生まれ84歳。
しかも2月生まれのボクは13日 許さんは25日の誕生日。
作品の評価としてエクサレント(最高級)との答えあり。
末尾に来台されませんか?2月25日、台南へと。 ”思案投げ首”とはこのことか!・・
博多の今泉先生にボクと同行してとサポートを依頼。
2月25日のチャイナエアラインの早朝のフライトで台北へ。
到着してみれば国際空港が行動が取れないほどの混雑。 旧正月との由。
出迎えの教子さん・郭さん(作詞家)と一路新幹線で台南へ。
第一の目的地。
許さんがオーナーである博物館へ。 車中から見える奇美の広告。
広大な奇美工場を通って 大きなビルへ到着
・・・下関で見るデパートの大丸とよく似たスケールと色彩。
降りて目に入ったのが『奇美博物館』。 エッ エッ エッ ・・・それしか言葉がない。
ノーフラッシュ(カメラ禁止)の入り口ドアへ・・・
旧正月もあって超満員の群集・・・・
世界の古楽器から現代のギター・クラリネット・トランペット
アフリカの原住民の古代のパーカッション。
次に イギリスの国会で海外持ち出しのクレームがついた 絵画まで・・・
これは、まさしく「ショック」! 連続 連続 連続 ・・・
(作詞家 郭 振純氏)
~ 郭さんの督促で5時半のアポイントの許さんの自宅へ移動。
台南の中央にある 古い古民家が自宅である。 デモ
セキュリテイーの厳重なこと。 当然でしょう
世界のビッグマンの小さなハウス。 でもドアを開ければ大変なこと。
まず、 スタンウエイのピアノ(大型) 横に、 ハープがデント!
バックに並んでいる ギター・マンドリン・ヴァイオリン。
コーラスの女性とボクが用意していったファンファレーのCDをかけて、
スネヤードラムのマーチ・テンポにボクと腕を組んで歩く、許さんのショーマンシップ。
さすが、ビッグマン。
本人もギター・マンドリンを演奏。
今回作曲した、許さんの賛歌をヴァイオリンで共に演奏。
彼のレパートリーの広いこと、ギターを持てばナツメロの「影を慕いて」
マンドリンで「ラモナ」 フォスターメロディーを・・・
7時になって、料理人の用意したフルコースの料理。
乾杯の前に、全員で「賛美歌」を~ 許さんはクリスチャンでした。
夜も更けて、許さんが自宅に一泊の話しもあったが、予約していたホテルへ・・・・。
許さんのラストメッセージが私へ。
奏者全員がスタンドプレイで、別れのための「オーロングサイン(蛍の光)」・・・・
このにくい演出! 再会の堅い約束で・・・エクス キューズ ミイ ・・・・!
許さんはグレートマン 世界的
そして ビッグマン The finest gentleman でした。
~ 一 路 台 北へ ~ ~ ~
26日 [台湾歌壇] 歌会始め出席の為。
読 売 新 聞 2月25日(土) 記 事
「元少年工らとの交流きっかけ」
太平洋戦争中、日本で軍用機の生産に携わった台湾の元少年工たちと交流を続けている
下関市の作曲家、加藤さとるさん(84)が25日、台湾の音楽会に出演する。交流が縁となり、現地の実業家に招かれた。
加藤さんは「取り組みは無駄ではなかった」と活動の広がりを喜び、
新たな出会いを楽しみにしている。(受田至弘)
加藤さんは、村田英雄さんの「山頭火」の曲などを手がけた作曲家で、
ジャズ奏者。現在は下関市を拠点に、妻で歌手の浜崎むつみさん(70)らと
ジャズコンサートなどを開いている。
2003年、加藤さんは台湾の元少年工が日本のことを
「心の祖国」と詠んだ短歌を月刊誌で目にして心を打たれた。
その短歌に曲を付けたことがきっかけとなり、元少年工らでつくる
「台湾高座台日交流協会」と交流が始まり、毎年、協会の大会に合わせ、
浜崎さんや音楽仲間と台湾を訪問。日本の唱歌や流行歌を歌ったり演奏したりしてきた。
今回の訪問は、訪台のたびにサポートしてもらっている
現地の女性からの作曲依頼がきっかけ。
詩は日本語で、台湾を代表する実業家でバイオリニストでもある許文龍さん(84)をたたえる内容。
許さんの知人が、許さんの誕生日に曲をプレゼントしようと作詞し、
女性を通じて加藤さんに作曲を依頼したという。
加藤さんは依頼を快く引き受け、「誕生日祝いにふさわしい、
明るくテンポのある曲」を作り、CDに録音して発送した。
音楽会は許さんの誕生日の25日、許さんの自宅で開かれる。
親交のある数十人が招かれ、歌や演奏などで盛大に祝うという。
同日、福岡から台湾へ向かう加藤さんは「高齢なので、毎回、
これで最後という気持ちで訪台しているが、交流の輪が広がって感激している。
許さんと会うのが楽しみ」と期待している。
(2012年2月25日 読売新聞)
「ボクの東京でのラストラン」 楽旅としてのスタートは博多から・・・
ドームタイプのキャバレーでフルバンドの全盛時代に始まった。
福岡空港が国際空港としてスタートしたのと時を同じくして、手近な東南アジア方面から始まって遠くはブラジル/アルゼンチンへ、日航の路線のない時代でヴァリグ航空での50時間の長旅。
各国での数々のミュージシャンとの交流も振り返ると素晴らしい思い出。
ルソン島のケェソン市の長期滞在型のホテルの薄暗い地下レストランでエキサイティングなテナーサックスの音色。まさしく多国籍の集う場所。
国内では 地方にしてはジャズ演奏の場所もなく カラオケに追い出される始末。
劇伴 (地方公演のタレントの唄の伴奏) のみに終始することに飽き足らず、ふとふれた 山頭火の自由律に曲をつけたことに始まり、尾崎放哉 中原中也 宮澤賢治 金子みすヾ 小泉八雲(ラフカヂオハーン) 檀 一雄、 松本清張 など・・・
ボクの集大成としての 「東京ラストラン」 でした。
しかし、一つ一つ区切りのようだけれど、ボクのアンテナは広がる・・・
自分を見つめ(体調)果てしなく目標をつくる。・・・・あるく・・・あるく・・・あるく
(山頭火は・・歩く 歩くほかない
今回、ブログを立ち上げ、手元に小冊子として掲載していた4年間の資料を書いてきました。又、テーマを決め時々更新してゆきます。
ご期待!